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自由であること

[ 2010年4月10日 22:46 ( 信長殿 ) ]

信長は、生涯自由人だったのではなかろうか?とふと考える。

自由でいる限り、自らが克服できない状況に遭遇する事はありえない。
なぜなら、自らが選んだ道を選択し、追求出来るという自由がある場合、
唯一束縛されるとすれば、それは自らが自分に対して課してしまう、
限界だけだから。
自ら限界を課す事がなければ、極端に言えば何でも出来るという事になる。
 
自由であったからこそ、恐れるモノなど何も無く、ひたすら天下布武に向かって
突き進む事が出来たのかもしれない。。。。自由ってなんなんでしょうね。

情報とは?

[ 2009年9月22日 20:43 ( 信長殿 ) ]

信長を語る時、「ウツケ者」、「かぶき者」、等々語られているが、本当に言われてているような「ウツケ者」だったのであろうか。私個人的には、そんなはずは無いと断言する。

かの「桶狭間の合戦」で勝利を勝ち得たのはなぜ?
一部では数百名とも言われている少人数で、今川義元の大軍勢に勝利したのは、信長の情報管理の緻密さゆえの結果であったと考えられる。
彼は、「勝負の7割は戦う前に決まっている」とも言っていたように、既に、情報の価値を十分理解していたのではないだろうか。

現在、この情報という言葉、非常に多用されているが本当に情報を理解したうえで利用しているケースは少ない。
表面的な情報(ある意味これも情報)にまどわされ、本質を見落とすことがないだろうか?
あるいは、部分的な面に執着し、事の全体が見えなくなっていないだろうか?
情報は、スタートからゴールまで一貫した信念に基づいて利用する事で価値のあるものだと痛感する。

桶狭間での勝利は、豪雨の中での奇襲戦とも云われているが、実際は敵を欺くには見方をもといった情報戦の基本に忠実に裏づけされた奇襲であったといえる。 敵に対して自らの情報は徹底的に隠し、敵の情報は徹底的に探る、まさに情報戦の勝利と考える。

本当に支配者か?

[ 2009年7月11日 11:39 ( 信長殿 ) ]

信長は本当に、広く云われているような支配者、あるいは独裁者だったのであろうか?
彼が勝ち取った領土では、楽市、楽座等でもわかるように、古い慣習を廃止することで、むしろ支配から、領民を開放したとも云えるのではないだろうか?

それが、彼のルールであったのではないかと考える。若い頃の無粋な振る舞いも自分のルールを自己の中に確立していた為、それに従っただけではないかと。

どんな状況でもイニシアティヴを発揮すれば(良い、悪いは別問題として)人が集まるのは自然の摂理と考える。彼の周りにいた武将達もそうであったかもしれない。
彼らは自分の進むべき道を知っている信長についていく事で、彼と関わっていたい!と考えたのではないだろうか?

しかしながら、先頭に立つためには、「自ら手本を示し、実行することで初めて人を指導する事ができる」という事も大切である。
人一倍、自己鍛練をし、自分自身の運命を支配出来るのは、自分自身であることを証明してみせたのであろうか。

戦場でみせた行動、常に無から有を造りだしたう信長からそんな事を感じた。

秀吉の出世の理由は?

[ 2009年6月21日 21:38 ( 信長殿 ) ]

信長は美濃攻略の足場とするため、佐久間、柴田といった歴戦の武将に墨俣に築城を命じたが、彼らはことごとく失敗してしまう。そして「秀吉」が、それを一夜で築城すると言い出した時、彼らは批判の言葉を浴びせかける。

しかし、秀吉は野武士、大工等を使い、彼らが失敗した築城をやり遂げてしまう。
信長はその功を賞し、秀吉を城主とした。俗に「墨俣の一夜城」という秀吉出世の第一歩となった功績である。

何か事が起こった後であれこれ言ったり、結果を知った後で他人の行動を批判するより、一つの仕事をやり遂げた事への称賛を贈る事が、結果的には有意義である事を信長は家臣達に伝えたかったのであろうか。
秀吉はその後、信長の為に(結果としては自己のためかもしれない)、至る所で成果を上げることで出世していった事は有名な話である。

「人から評価されたいならば、周りの人に自分が頼りになる人間だということを実証する事」である。信長は戦場で功績を挙げた人間には、身分にかかわらず、報酬を与えたという。報酬とはそれを受けるに相応しい事を、行動で証明した人間にもたらされるものであるという事を実践したのであろう。
現在、人を評価する人、される人にとって頭の中に入れておくべき事だと考える。

美濃攻略での敗北とは?

[ 2009年6月14日 11:42 ( 信長殿 ) ]

尾張を統一し、東の今川勢を破り、家康と同盟した信長はその後、ついに美濃攻略を始める。
しかし、何度も美濃を攻略するが、その都度撃破されながらも、ひたすら攻略を続けた。

まるで、敗北は、自分がそれを敗北と認めない限り、存在しないものでもあるかの如く。

美濃攻略足掛け7年、ようやく稲葉山城攻略に成功、ここを信長は「岐阜」と改名し、新しい居城とする。
そしてこのときから「天下布武」を用い、第一段階の目標を達成する。

この事から、敗北とは自らが諦めてしまわない限り、一時的なものにすぎないと考えさせられる。
それどころか、一時的な敗北を繰り返す度に、より強い目標達成意識を持たせてくれるともいえる。
信長の美濃攻略から、敗北(言い換えると失敗)するたびに、最終的な目標達成のための何かを学ぶ事が出来ると強く感じてしまうのは私だけろうか?

「失敗は目標達成の為の単なる経験に過ぎないものである」 とする事で、自分の中での失敗の経験が減り、成功の経験が増えるという考え方でいたほうが精神的にも良いと考える。

信じるということ

[ 2009年6月 6日 21:39 ( 信長殿 ) ]

信長の戦歴であまりにも有名な桶狭間から考えてみる。

情報戦での勝利であることが多くかたら荒れているが、果たしてそれだけで、1/10とも、1/5とも云われている戦力で勝利した?別の要因があったのではなかろうか?

こういった事を聞いたことがある。
いざという時になると信じられないほどの力を発揮して、できるなどと夢にも思わなかったような事でも、成し遂げてしまったといった事。(火事場の・・・)

目標に対して、一生懸命に取り組み、短時間でいつもより多くのことを達成できた事がなかっただろうか?誰でもそういった事があったはずである。
たとえば、休暇が迫り「休みの前に、すべてを終わらせてしまおう」という気持ちが、そうさせたのかもしれない、あるいは、「絶対に勝たねばならない試合だ」から集中力を発揮できたのかもしれない。
信長にとっても、後の無い、負ける訳にはいかない、そのような状況下にあったからこそ、細部にいたるまでの集中力、強い忍耐力を発揮し、必ず勝利すると信じる事で、桶狭間での勝利を手に入れたのではなかっただろうかと勝手に推測してみた。

実は、どんな事にも日頃から、自分自身が出来ると信じ続けることこそが、目標を達成するために最も必要なことなのかもしれないと。。。。

単なる利己主義者か?

[ 2009年5月30日 23:41 ( 信長殿 ) ]

信長は、将軍の理由が何であろうが、かなりの地位を何度となく提案されている。
が、それらを全て断っていたのは、なぜであろうか?
大概の人間であれば、その誘いに飛びついてしまいそうな提案ですら断り続けていた。
自分の目標(良否は別にして)に対して、決して妥協していなかったのである。

何かを成し遂げようと考えていることが達成されていなくても、妥協してそれを受け入れてしまう事は、結果的に、重要な目標達成の妨げとなってしまうと考える。
妥協し、手に入れてしまえば、本当に望むものは決して手に入れる事は出来ない。

目標に向かって何かをしている時、そういった甘い誘惑は少なくない。
そういった時に、妥協して、それを受け入れてしまいそうな時に、本当に自分の進むべき道に向かっているのか考え直してみようと痛感する。

常に、最善を尽くし、妥協することなく一歩、一歩着実に進む事が、結果として、大きな目標を達成するためのルールである事を信長の姿勢から強く感じる。

単なる新しい物好きか?

[ 2009年5月 2日 11:36 ( 信長殿 ) ]

信長は、新しい物好きだったという事は比較的有名な事である。
伴天連(キリシタンバテレン)の服装やソンボレロを身につけたり、ワイン(当時にすれば、かなりの勇気が必要だったかもしれない)なども好んで呑んでいたらしい。

そういった好奇心、あるいは探究心がその場で終わらず、さらに自己流にアレンジしてしまうあたりが、彼が普通の人で終わらなかった所以かもしれない。その非凡さが、武田軍との長篠の戦い(追記参照)での鉄砲の使用でもあらわれている。

信長は、若い頃から何事にも常に好奇心を持ち、自己流にアレンジ、行動する事で自分のものとする習慣を身につけていたのであろう。

多くの人は、アイディアと成功(あるいは勝利)を混同しているのではないだろうか。
そのような人は、アイデアそのものが最も重要だと考えがちだが、実際は、たとえ平凡でも行動に移したアイデアのほうが、行動せずに頭の中に眠らせたままのアイデアよりもずっと価値があるといえよう。

長篠の戦

信長は早くから鉄砲に興味をもち、その遠距離殺傷力という利点、火縄式銃の発砲までの時間を必要とする弱点を十分理解したうえで、自己流のアイデアで使用、それを最大限に発揮する事で長篠の戦へと向かう。

武田騎馬軍団とのこの戦で、信長は馬防柵、鉄砲の三段構え、足軽という戦術で武田軍に勝利した。
馬防柵、鉄砲という当時ごく普通の防戦体勢を、鉄砲を三段構えとすることで攻撃体勢に変化させることで勝利を得たといわれている。

あえて馬防柵という防戦を強調し、実は攻撃のための布石である点をさらりと隠してしまったという点に信長らしさを感じる。武田騎馬軍団も常識こだわるあまり、勝利を逸したのかもしれない
本合戦については徳川家康の存在等の関連もあるがここでは割愛しておく。

行動の原点は?

[ 2009年4月25日 11:44 ( 信長殿 ) ]

信長を考えるとき、決まって、つきまとうのが次の2点である。
・信長とは何者か?
・小から大を生み出すことに成功したのはなぜか?

彼が16歳にして父親「信秀」から引き継がれた織田家を、天下に轟かせたその生き様は非常に興味深い。
信長といえば、27歳で今川義元を倒した「桶狭間の戦い」以降が有名(華々しい?)であるが、それまでの11年間はどうしていたのであろう。

身内からも「大うつけ」とよばれ、、部下の裏切り(謀反?)との戦いの日々であったと云われている。そのような環境が、彼なりの少数精鋭部隊を創り出し、自ら先頭に立つ事で戦の感性を鍛錬していったのであろうか。

本来であれば、身内と共に地盤を拡大すべきところ、逆に彼は、自分のみを信じる事で本当に信頼できる部下(使える部下?)以外は持たずに、幾多の戦の中から、効率よく戦う術を身につけたのであろう。

どんなに厳しい状況下でも、自分自身をコントロールする事の出来る人間は、勝利への道を見い出すことができる事を信じて。
ほとんどの問題の解決策は、人から教えられるものではなく、たった一つ、「 自分自身の中にある」 という事を、若き時代の信長から強く感じる・・・・・

彼は破壊者か?

[ 2009年4月19日 22:40 ( 信長殿 ) ]

信長は、本当に歴史が語っているような単なる破壊者だったのであろうか?

人々のために有益な事業を起こす方が壊してしまう事より、よっぽど難しいことは周知のとおりで、となると、彼の破壊行為は、そのための破壊だったのではなかったろうか?
事実、彼の支配した領地は、効率的でない物が効率よく変えられていった事が少なくない。

この事は物事に限らず、人間にもあてはまる。
よく考えもせず、他人の短所を批判する事、また自分とは意見の合わない状況の中、あるいは、他人の行為の中からミスを見つけ、批判するのは、本当にたやすいことである。

しかし、そういった批判も、相手に対してではなく、相手の「行為」に向けられたものであり、「改善のチャンスを与えるもの」であったのではないだろうか?
その内容は 相手を「破壊してしまう」のではなく「建設的なもの」であり、相手の可能性を示唆したものであったと考える。(信長サイドに、偏っているかも・・・)

まぁ、とにかく、人間は、物に限らず、今以上に良いものを創造する事が出来ないのであれば、決して破壊してはいけない。信長の破壊という行為の中からそんな事を考えてみた。

カブキ者か?

[ 2009年4月11日 22:38 ( 信長殿 ) ]

信長、斉藤道三の「正徳寺」の会見は見事である。
その時の、信長の服装は奇抜で、虎と豹の革の半袴、帯は縄帯、着物は浴衣染め帷子を片肌抜き、見ていた人々は度肝をぬかれたという。
しかし、会見の場では、一変して正装で現れたものだから、二度驚かされる。

さらに、この時代に鉄砲100挺、三間の朱塗りの長槍500本を従えていたことから、道三は手も足も出なかったという。
後に、道三は、「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」(うちの子達はみんなあの男の子分になるだろう) と、語ったと云われている。
この会見で、戦に長けていた道三は、世間の評判と、現実の違いを目の当たりにし、信長の真の強さを見たのかもしれない。

人間は、「良い評判を得たいと考える事が普通かもしれません」が、そんなことを考えるのは止めて、自己を向上させることを意識的に行い続ける事が大切であろう。
正しい評価を得る一番確実な方法は、たとえ、それが万人に何と言われようと、正しいことであれば、意識的に行い続けることで、自ずと正しい評価を得る事が可能であると考える。

やはり、信長は単なる「カブキ者、うつけ者」ではなかったと私は思う。
鉄砲1挺でも入手する事が困難な時代、彼の人脈?・・・には驚かされる。

戦い続ける人とは?

[ 2009年3月21日 11:45 ( 信長殿 ) ]


信長の一生は、常に戦場にあったといわれている。
人は常に戦い続け、そして勝ち続ける事が可能なのであろうか? ややもすれば、その環境から逃げ出してしまいたくなるのが普通ではなかろうか? が、古代ローマにもそのような人物を発見した(独断ですが)ので紹介してみます。

その人物は「ジュリアス・シーザー」、彼はイギリス征服を狙い、ブリテン島まで航海し、軍隊と補給品を陸に揚げた後で、船をすべて燃やすよう兵士に命令したそうである。
その後、「さぁ、勝つか死ぬかだ。我々に選択肢はない」と、兵士全員を集め伝える。
この采配で、シーザーは、作戦の成功を確実な物にしたといわれている。

勝つこと以外に選択肢がなければ、またはそれ以外の選択肢を受け入れなければ、結果として戦いに勝つことは必然的である事を、シーザーは知っていたと云われている。

人生の中で、勝利が不可能に思える状況に陥った時、変動する状況に応じて柔軟に対応できる、固い意思で目標に向かう人に対して、最後まで立ちはだかるような障害は、そうめったにはない事を、古代の英雄から、そして信長の戦歴から感じるのは私だけであろうか?

[ジュリアス・シーザー]
古代ローマの政治家。巧みな戦術で諸種族を撃破、100万人の住民を奴隷にする。この結果、ローマ最大の富豪となる。その後、ポンペイウス軍や元老院派を破り、独裁者となる。しかし彼の王への野望を恐れたブルータスなどに暗殺された。

あの時こうしてさえいたら...

[ 2009年3月 8日 21:31 ( 信長殿 ) ]

信長には、「あの時こうしてさえいたら…」とか、「もし…だったら」という思いがあったのだろうか?
そんな戯言をと、一言で片付けられてしまうかもしれない。それほど彼の判断力には、驚かされる逸話が多い。
幾たびの戦いの中で、今追えば勝利、今引けば敗北、そんな場面が幾多あったことだろう。
しかし、彼は、迷う事なく追跡、退陣を決定し、そして、その決断のほとんどが、次のステップの布石として活きている。

「あの時こうしてさえいたら…」、「あのチャンスを生かしていたら…」
と言っている人々を、何人見てきただろう、あるいは自分がそうだった、ことがあったかもしれない。

彼の判断力、決断力の前では、「もし…だったら」というのは、実際に何かを始める前に勝負が終わってしまった、自信のない人々の口癖のように感じる。

その時々で、出遭った機会をチャンスとしてうまく活かせるかどうかは、自分の考え次第で決まるのではないだろうか。行動を起こさなければ、その時点で、ごくありふうれた人生を運命づけられてしまうように思える。

今からでも遅くない、まず、行動することが大切な事だと痛感する。。

信長の誕生

[ 2009年3月 1日 11:45 ( 信長殿 ) ]

信長の中に、現在云われているような人物像が誕生した?のはいつからなのだろうか?

彼の父親も、武功の多い人物であったといわれているが、その父の戦略、生き様を見て育ち、そして自由奔放な発想の中から彼なりの結論を出した結果、現在良く知られている信長像が出来たといったことがどこぞに書かれていたように記憶している。

信長は、父信秀を単なる自衛集団の領主としてみていたようであり、自分は領主ではなく、本来の戦闘集団の支配者になると決意したのであろう。

その決意を胸に、執念ともいえる熱心さで目標に集中し、自らチャンスを生み出し、そして、一つ一つの行動が、彼を目標に近づかせたと考える。

何度目かの誕生日を迎えるにあたり、自分の進むべき道を知っている人間は、必ず、高いレベルの成功を実現する事が可能である事を彼の人生から強く感じた。

周囲からチャンスが与えられるのを、ただ待ちながら目標のない人生を送る事の無い様に・・・